望洋ヒストリー
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かけあしで振り返る
横浜市町内会制度の成り立ち~望洋自治会の発足横浜市における町内会制度の起源 概要 明治22(1889)年、横浜市に市政が施行。横浜は開港地として貿易関係や居留する外国人との交流が盛んで、伝染病の危険にさらされる機会も多かったため、明治23年には衛生組合が作られました。これが、後の町内会の起源であったと考えられます。 大正12(1923)年9月の関東大震災後には、任意団体として青年団や、今の町内会のような組織が市内のあちこちに生まれました。横浜市も、これらを側面的に援助・育成していったようです。 昭和15(1940)年、内務省は行政組織として全国的に町内会を整備。町内会の下には十戸前後からなる複数の隣組を作りました。「トントントンか
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望洋自治会エリアの変遷③
第二次世界大戦後の様子アメリカからの新しい隣人達 終戦後、横浜は米軍により市街地の約27%を接収され、本牧地域も米軍キャンプとなりました。YC&ACも接収され、返還されたのは昭和24(1949)年のことだったといいます。当時、矢口台周辺は駐留軍の家族が住むハウスだらけでした。将校たちは、丘の上の一等地(現在の本牧山頂公園一帯)に広い庭付きの家を与えられ住んでいましたが、そこに住めない士官・下士官クラスの人々は矢口台の丘一帯に居を構えました。このあたりで二世の不動産屋さんが商売をしていたこともあり、アメリカ人の住居が増えたようです。また、現在の「コスモ山手」あたりの海側の坂の下には、進駐軍のかまぼこ型のハウスがずら
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望洋自治会エリアの変遷②
第二次世界大戦中の様子丘の上の外人さん達、追い出される!? 矢口台の丘からは横須賀の軍港がよく見えました。そのため戦争を機に、この地に住む外国人は早々と、箱根などに強制転居させられてしまいます。船の出入りの情報が漏れないようにするための措置ですが、同盟国であるドイツ人だろうと、長く日本に住んでいた人だろうと、外国人はすべて追い出されてしまいました。空き家となったこれらの洋館の広い庭には防空壕が掘られ、空襲があると近所の住民達が逃げ込んでいました。戦後はその空き家を連合国の兵隊達が使いました。 YC&ACは大正元年(1912年)に横浜公園(現在の横浜スタジアム)から矢口台に移って来ていましたが、戦争が始まって昭和
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望洋自治会エリアの変遷①
第二次世界大戦前の様子アスパラ畑が広がる丘に、洋館が点在したあの頃 戦前の「矢口台」、「池袋」、「根岸加曽台」の住民は、わずか80人余り。矢口台地域は、もとは笹の繁る山で、野菜畑などもありました。加曽台近辺にはアスパラ畑が広がり、住民達はその間の細い道を抜けて間門方面へと下りていました。 このあたりにはヨーロッパからの外国人の住まいや別荘など、立派な洋館も数多く建っていました。三角公園の前には千坪ほどの広さのフランス人の邸宅がありました。その土地は後に八分割され、県が建て売りで分譲したそうです。現在の「ユニーブル横浜山手」や、隣町の「クオス横濱山手(前 全日空社宅)」なども、外国人の広大な邸宅の跡地です。根岸加
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日本書紀の時代までさかのぼり一望する、
望洋自治会の地名の歴史的背景既に「日本書紀」の時代から、関東には相模国と武蔵国が置かれていたようです。そして、いま私たちが暮らしている橫浜市の大半は、実は武蔵国に属していました(!)。境川がまさにその国境で、現在でも上流域では町田市と神奈川県の境界になっていますね。 地図提供:八聖殿郷土資料館・相澤館長 望洋自治会の属するこの地域は、「久良岐(くらき)郡・平子(たいらこ)郷・根岸村」と呼ばれていました。これは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でおなじみとなった三浦一族が、戦国時代(16世紀初頭)に小田原の北条氏に破れた後、一族の傍流で従来からこの地(磯子・杉田周辺)にあった平子氏が、北条
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