望洋自治会エリアの変遷②
第二次世界大戦中の様子

丘の上の外人さん達、追い出される!?
矢口台の丘からは横須賀の軍港がよく見えました。そのため戦争を機に、この地に住む外国人は早々と、箱根などに強制転居させられてしまいます。船の出入りの情報が漏れないようにするための措置ですが、同盟国であるドイツ人だろうと、長く日本に住んでいた人だろうと、外国人はすべて追い出されてしまいました。
空き家となったこれらの洋館の広い庭には防空壕が掘られ、空襲があると近所の住民達が逃げ込んでいました。戦後はその空き家を連合国の兵隊達が使いました。
YC&ACは大正元年(1912年)に横浜公園(現在の横浜スタジアム)から矢口台に移って来ていましたが、戦争が始まって昭和17(1942)年頃には横浜市に接収され、日本の軍隊が広いグランドを訓練などに使っていました。
迫り来る戦禍を逃れて
古い広報誌から、当時の思い出を見てみましょう。
【横浜大空襲】
昭和20(1945)年5月29日、午前9時過ぎ。警戒警報のサイレンで海を振り返ると、B29が編隊を組んでやって来るのが見えました。大きな鳥が羽ばたくような轟音がして、あぁっと思う間もなく緑ヶ丘の高射砲がダダーッと鳴り出し、反撃を始めました。
トンネルのような防空壕に逃げ込んでいると、ビリリッとそのトンネルが崩れたようになり、B29がバランバランと石油臭い焼夷爆弾を落としていきました。根岸園に一つ、うちの庭と、もう一軒の家に一つ。ほかにも、あちこちに・・・。うちは庭の松の木のところで、もうちょっとで母屋に火が付くところがでしたが、何とか助かりました。
破裂した焼夷弾からはゴムのようなベトベトしたものが飛び出し、それにフワフワと火がついて、それで皆やられてしまうんです。必死で水をかけましたが、あちこちで次々と家が燃えました。YC&ACも空襲で焼けました。
横浜大空襲では市街地の半分以上が被害を受けました。その直前、4月4日と4月15日にも空襲があり、横浜市ではかなりの被害が出たといわれています。
やがて、終戦の時が訪れます。
【終戦・玉音放送の思い出】
「ただいまより、重大なる放送があります。」
正午の時報と同時に、ラジオからアナウンサーの緊張した声が流れた。皆、固唾をのんでラジオの前に集まっていた。
やがて、独特のイントネーションを持つ天皇の声が聞こえてきた。国民が初めて聞く天皇の声だった。
雑音がひどくて聞き取りにくかったが、日本が負けたということだけは理解できた。張り詰めていた気持ちが一挙にゆるみ、皆、放心状態だった。
焼け残り、抜け殻となった洋館がポツポツと建つこの街に、戦後は大勢のアメリカ人がやってきます。
次回は、戦後の街の様子をお伝えします。
- 皆さんへのお願い
- 「望洋ヒストリー」では、望洋自治会周辺を含むエリアの歴史や地域名の由来、先人から聞いた昔話や地元自慢等を連載していきます。ぜひ、楽しんでお読みいただき、お気づきの点や追加情報などございましたら、ご遠慮なくご一報ください。
また、このエリアの昔の思い出や体験談、伝え聞いた話、古い写真などお持ちの方は、ご提供いただければ幸いです(写真等の資料は大切に取り扱い、速やかに返却いたします)。ご自身で執筆していただける方は、原稿をお寄せください。
ご一緒に私たちの街、望洋自治会の歴史を記録し、積み重ねていきましょう。
大崎
2020年より望洋自治会の会長を務めております。早くから海外との交流が盛んだったヨコハマの中でも、望洋は日々の生活が常に海外の人や文化と隣り合わせてきた、きわめて稀有な歴史を持つ地区です。この街の魅力を皆様により深く知っていただく一助になればと、古い広報誌などもめくり、歴史を掘り下げてみることにしました。他の記事もぜひお読みいただき、感想などお寄せ頂ければ幸いです。
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