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望洋自治会エリアの変遷①
第二次世界大戦前の様子

望洋自治会エリアの変遷①
第二次世界大戦前の様子
文/大崎

アスパラ畑が広がる丘に、洋館が点在したあの頃

戦前の「矢口台」、「池袋」、「根岸加曽台」の住民は、わずか80人余り。矢口台地域は、もとは笹の繁る山で、野菜畑などもありました。加曽台近辺にはアスパラ畑が広がり、住民達はその間の細い道を抜けて間門方面へと下りていました。

このあたりにはヨーロッパからの外国人の住まいや別荘など、立派な洋館も数多く建っていました。三角公園の前には千坪ほどの広さのフランス人の邸宅がありました。その土地は後に八分割され、県が建て売りで分譲したそうです。現在の「ユニーブル横浜山手」や、隣町の「クオス横濱山手(前 全日空社宅)」なども、外国人の広大な邸宅の跡地です。
根岸加曽台方面、後にNTT会館(2023年秋に解体)となった地にはイギリス人の屋敷が、その先には生糸商で有名な若尾生蔵の邸宅があり、広い庭に繁る大きな樹木がひときわ目を引いていました。

有名人と言えば、大正15(1926)年頃には鈴木惣一郎氏が矢口台に住んでいました。氏は読売巨人軍の創設に尽力し、セ・リーグ会長を長く務めた方です。当自治会でも世話役として活躍され、一時期、会長の大役を担われました。

また、間門交差点の東側の丘には、当時の有名旅館「間門園」があり、作家の山本周五郎(1903-1967年)は晩年、ここで執筆活動をし、数々の名作を生み出したといいます。

わが街のメイン道路、誕生の経緯

昭和3(1928)年、白井八郎兵衛さんが家屋を新築する際、細い町内の道の拡張を計画、深野さん等の尽力もあって、間門と現在の山手駅を結ぶ道が作られました。矢口台を経て大和町へと抜けるこの道は、今も私たちの街の幹線道路となっています。間門に交番(2018年3月閉鎖)が開設されたのもこの頃のことです。

望洋自治会の昔の広報誌に、当時の思い出が綴られていましたので、ご紹介します。

 

【思い出の風景】
昭和10(1935)年頃の思い出です。池袋の坂道(平坂)からの海の眺めは、それは素晴らしいものでした。遠く横須賀の猿島も見え、朝出て行った帆掛け船が、夕方一斉に帆を並べて帰港する姿は、絵に描いたように見事でした。冬にはノリの養殖が行われ、沖からの風は心地よい磯の香りがしました。
子ども達は家から水着で出て行って間門の海で泳ぎ、バケツにあさりや海苔を採ってきたものです。
夜になるとこの一帯は一転して淋しく、裏山ではフクロウが鳴いていました。当時、間門は市電の終点で、豆口台公園一帯に昔あった市営住宅へ帰る人々が何人か、いつも黙々と坂を上がっていきました。この坂の途中、かつて美容院(ベルモード)があったあたりは深い谷になっており、皆、怖がって走って登ったものです。その上の空き地は夏のラジオ体操の会場でした。上がりきった角地には国旗掲揚台があり、周りには畑だけが広がっていました。

丘の麓の海岸線がもっと近く、その向こうには漁場としての海の風景だけが広がっていた、のどかな時代のお話です。

 

皆さんへのお願い
「望洋ヒストリー」では、望洋自治会周辺を含むエリアの歴史や地域名の由来、先人から聞いた昔話や地元自慢等を連載していきます。ぜひ、楽しんでお読みいただき、お気づきの点や追加情報などございましたら、ご遠慮なくご一報ください。
また、このエリアの昔の思い出や体験談、伝え聞いた話、古い写真などお持ちの方は、ご提供いただければ幸いです(写真等の資料は大切に取り扱い、速やかに返却いたします)。ご自身で執筆していただける方は、原稿をお寄せください。
ご一緒に私たちの街、望洋自治会の歴史を記録し、積み重ねていきましょう。

大崎

2020年より望洋自治会の会長を務めております。早くから海外との交流が盛んだったヨコハマの中でも、望洋は日々の生活が常に海外の人や文化と隣り合わせてきた、きわめて稀有な歴史を持つ地区です。この街の魅力を皆様により深く知っていただく一助になればと、古い広報誌などもめくり、歴史を掘り下げてみることにしました。他の記事もぜひお読みいただき、感想などお寄せ頂ければ幸いです。

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