望洋自治会エリアの変遷③
第二次世界大戦後の様子

アメリカからの新しい隣人達
終戦後、横浜は米軍により市街地の約27%を接収され、本牧地域も米軍キャンプとなりました。YC&ACも接収され、返還されたのは昭和24(1949)年のことだったといいます。
当時、矢口台周辺は駐留軍の家族が住むハウスだらけでした。将校たちは、丘の上の一等地(現在の本牧山頂公園一帯)に広い庭付きの家を与えられ住んでいましたが、そこに住めない士官・下士官クラスの人々は矢口台の丘一帯に居を構えました。このあたりで二世の不動産屋さんが商売をしていたこともあり、アメリカ人の住居が増えたようです。
また、現在の「コスモ山手」あたりの海側の坂の下には、進駐軍のかまぼこ型のハウスがずらっと建ち並んでいました。
余談となりますが、現在の本牧山頂公園一帯を占めていた「横浜海浜住宅地区」が昭和57(1982)年に日本に返還されるまでは、広々とした土地に独特のデザインで統一されたハウスがポツリポツリと建っていました。近隣に住む人々は、その家、あるいはそのエリアを、親しみを込めて「外人ハウス」と呼んでいました。
同じ系統のデザインのハウスは、長いこと、根岸森林公園に隣接する「根岸米軍住宅地区」エリアで見ることができましたが、その土地も既に日本に返還されています。
戦争と、死と
こんな話も残っています。
朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月)の時、戦死したアメリカ兵の遺体は一旦YC&ACに運ばれ、立派に装飾を施した後、本国に送り返されたということです。
しかし、アメリカに送り返されることのない遺体は隣接する大きな洋館(現・クオス横濱山手、前・全日空社宅)で解剖され、大きな箱に入れられ土葬にされました。YC&ACのテニスコートの下は、当時、ほとんど墓地のようなものだったという話です。
さかのぼって昭和23(1948)年12月23日、東条英機ほかA級戦犯とされる人達が処刑されましたが、実は、その遺体もYC&ACに運び込まれた後、久保山霊場で火葬にされたという話です。
根岸外国人墓地に眠る子ども達
最後に、この悲しい話にも触れておきましょう。
根岸外国人墓地には、当時、混血児と呼ばれた子ども達、約800体の遺体が埋葬されています。
「米軍の兵隊さんと日本人女性との間に生まれた子どもの多くは、少し大きくなると大磯の児童養護施設サンダースホームに引き取られて行ったけれど、赤ん坊の時に死んだ子は根岸外国人墓地に埋葬された」という話が伝えられています。
この話は、横浜を題材に多くの小説を書かれている山崎洋子さんのノンフィクション作品『天使はブルースを歌う――横浜アウトサイド・ストーリー』にも取り上げられています。
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ご一緒に私たちの街、望洋自治会の歴史を記録し、積み重ねていきましょう。
大崎
2020年より望洋自治会の会長を務めております。早くから海外との交流が盛んだったヨコハマの中でも、望洋は日々の生活が常に海外の人や文化と隣り合わせてきた、きわめて稀有な歴史を持つ地区です。この街の魅力を皆様により深く知っていただく一助になればと、古い広報誌などもめくり、歴史を掘り下げてみることにしました。他の記事もぜひお読みいただき、感想などお寄せ頂ければ幸いです。
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望洋自治会エリアの変遷② 第二次世界大戦中の様子
丘の上の外人さん達、追い出される!? 矢口台の丘からは横須賀の軍港がよく見えました。そのため戦争を機に、この地に住む外国人は早々と、箱根などに強制転居させられてしまいます。船の出入りの情報が漏れないようにするための措置ですが、同盟国であるドイツ人だろうと、長く日本に住んでいた人だろうと、外国人はすべて追い出されてしまいました。空き家となったこれらの洋館の広い庭には防空壕が掘られ、空襲があると近所の住民達が逃げ込んでいました。戦後はその空き家を連合国の兵隊達が使いました。 YC&ACは大正元年(1912年)に横浜公園(現在の横浜スタジアム)から矢口台に移って来ていましたが、戦争が始まって昭和17
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望洋自治会エリアの変遷① 第二次世界大戦前の様子
アスパラ畑が広がる丘に、洋館が点在したあの頃 戦前の「矢口台」、「池袋」、「根岸加曽台」の住民は、わずか80人余り。矢口台地域は、もとは笹の繁る山で、野菜畑などもありました。加曽台近辺にはアスパラ畑が広がり、住民達はその間の細い道を抜けて間門方面へと下りていました。 このあたりにはヨーロッパからの外国人の住まいや別荘など、立派な洋館も数多く建っていました。三角公園の前には千坪ほどの広さのフランス人の邸宅がありました。その土地は後に八分割され、県が建て売りで分譲したそうです。現在の「ユニーブル横浜山手」や、隣町の「クオス横濱山手(前 全日空社宅)」なども、外国人の広大な邸宅の跡地です。根岸加曽台
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