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日本書紀の時代までさかのぼり一望する、
望洋自治会の地名の歴史的背景

日本書紀の時代までさかのぼり一望する、
望洋自治会の地名の歴史的背景
文/かわらけ
  •  既に「日本書紀」の時代から、関東には相模国と武蔵国が置かれていたようです。そして、いま私たちが暮らしている橫浜市の大半は、実は武蔵国に属していました(!)。境川がまさにその国境で、現在でも上流域では町田市と神奈川県の境界になっていますね。



地図提供:八聖殿郷土資料館・相澤館長

 

望洋自治会の属するこの地域は、「久良岐(くらき)郡・平子(たいらこ)郷・根岸村」と呼ばれていました。これは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でおなじみとなった三浦一族が、戦国時代(16世紀初頭)に小田原の北条氏に破れた後、一族の傍流で従来からこの地(磯子・杉田周辺)にあった平子氏が、北条氏により本牧・根岸・橫浜・石川の4か村の統治を許されたからのようです。ただ、やはり北条氏の脅威に気が気でなかったのか、後に平子氏は、三浦一族と縁のあった越後(新潟)の上杉氏を頼ってこの地を去ってしまいます。このため、以降は長く「久良岐郡根岸村」と呼ばれていました。「久良岐」は、今でも磯子区の「久良岐公園」や中村川にかかる「久良岐橋」にその名をとどめています。

村の人々は主に漁をしていましたが、遠浅の根岸湾は、本牧沖に比べてあまり良い漁場ではなかったためか、漁閑期には丘に上がって畑も耕していました。一方で丘の上の人たちも、農閑期には網元の漁師の舟に乗り込むなど、互いに行き来して半農半漁の生活であったようです。彼らが丘と浜とを行き来していた道が、今も続く七曲りや中村坂、不動坂でした(こうした交流の背景は、また別の回でも触れようと思います)。

なお、八聖殿資料館には漁師達の道具や生活について、詳しい資料が展示されていますので、ぜひ見学してみてください。

明治34(1901)年4月、根岸村は橫浜市に編入されて「橫浜市根岸町」になりました。そして昭和2(1927)年10月1日、区制施行で中区が誕生したことに伴い「横浜市中区根岸町」に、さらに昭和8(1933)年4月1日、根岸町は大きく分割されます。この時に、それまでの「根岸町字(あざ)矢口」、「字池袋」、「字加曽」が、それぞれ矢口台、池袋、根岸加曽台として、根岸町から「独立」したのです。

一方、「久良岐郡」は、域内の町村が次第に独立したり橫浜市に組み入れられていった結果、大正15(1926)年には郡役所が廃止され、昭和11(1936)年には郡そのものも廃止されました。

 

皆様いかがでしたでしょうか? 今回は大まかな地域の歴史的背景を載せました。

 

皆さんへのお願い
「望洋ヒストリー」では、望洋自治会周辺を含むエリアの歴史や地域名の由来、先人から聞いた昔話や地元自慢等を連載していきます。ぜひ、楽しんでお読みいただき、お気づきの点や追加情報などございましたら、ご遠慮なくご一報ください。
また、このエリアの昔の思い出や体験談、伝え聞いた話、古い写真などお持ちの方は、ご提供いただければ幸いです(写真等の資料は大切に取り扱い、速やかに返却いたします)。ご自身で執筆していただける方は、原稿をお寄せください。
ご一緒に私たちの街、望洋自治会の歴史を記録し、積み重ねていきましょう。

かわらけ

私「かわらけ」が、従前親族や古老から聞き覚えた話や、HP立ち上げを機にあらためて取材したり文献等で調べた内容を基に執筆します。「昔ここは何だったか教えてほしい」「何でここは○○と呼ばれているの?」など、皆様の疑問へのお答えも差し挟みながら書き進めたいと思いますので、どうぞご遠慮なくリクエストをお寄せ下さい。なお、橫浜シティガイド協会の飯倉さんご夫妻(根岸加曽台在住)や、橫浜市八聖殿郷土資料館の相澤館長、郷土史家の長沢博幸様(本牧町在住)にも、お忙しい中をご協力頂きました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

 

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